「あら、朱莉さん。もう上がって来たの? 随分早かったけどお風呂場掃除はしてくれたのかしら?」奥のリビングから明日香の声が聞こえてきた。「はい、明日香さん。御風呂場掃除してきました」朱莉がリビングを覗くと明日香は巨大シアターで何やら洋画を観ている最中だった。そして明日香は眠くなったのか欠伸をしながら言った。「朱莉さん。悪いけどベッドルームには貴女を入れる訳にはいかないのよ。何せあの場所は私と翔の特別な場所なんだから。リビングのソファはソファベッドにすることが出来るから、貴女はそこで寝て頂戴。布団なら用意してあるから」いちいち嫌みな言い方をして明日香は朱莉の反応を楽しんでいるような素振りを見せるが、朱莉は心を無にして耐えた。「有難うございます。それでは私はリビングで休ませていただきますね」朱莉は明日香から布団を借りるとリビングのソファをベッドに直し、電気を消して横になったがちっとも眠くは無かった。その時――リビングの隣の部屋のベッドルームから明日香の声が漏れてきた。「ええ……うん、大丈夫よ。……ふふ……ありがとう。愛してるわ翔」『愛してるわ翔』何故かその言葉だけ、朱莉の耳に大きく響いて聞こえた。朱莉はギュッと目をつぶり、唇をかみしめた。(隣のベッドルームで明日香さんと翔先輩は愛し合って……明日香さんは翔先輩との間に赤ちゃんが……)脳裏にモルディブで偶然明日香と翔の情事を見せつけられてしまったあの時の記憶が蘇り……朱莉は布団を被り、声を殺して泣いた――お願い、早く夜が明けて―と祈りながら—ー****—―午前1時 琢磨はホテルの部屋で1人、ウィスキーを飲んでいた。手にはスマホを握りしめている。「くそっ!」琢磨はベッドにスマホを投げ捨てると、グラスに注いだウィスキーを一気に煽った。本当なら今夜朱莉にバレンタインのお礼を電話で言うつもりだった。だが、朱莉は今明日香に呼びつけられて同じ部屋にいる。そんな状況では琢磨が電話を掛ける事は出来無かった。「全く……明日香ちゃんは何処まで朱莉さんを振り回すつもりだ……」琢磨はイライラしながら再びグラスに氷を入れるとウィスキーを注いで飲み干すと乱暴にテーブルの上に置いた。それにしても何故だろう。今夜は何かどうしようもないほどの胸騒ぎを琢磨は感じていた。子供の頃から琢磨は異様なほど勘が優れていた
時間は2時間程前に遡る。リビングのソファベッドでぼんやりと天井を見ていた朱莉は隣の部屋に寝ている明日香のうめき声に気が付いた。「ううう……お、お腹が……!」それはとても苦し気なうめき声だった。「明日香さん!?」飛び起きて急いで寝室へ行くと、明日香は真っ青な顔で額に汗を浮かべてお腹を押さえている。「う……い、痛い……く、苦しい……」この苦しみ様は尋常ではない。朱莉は急いで電話をかけ、救急車を呼んだのだった――****――午前9時名古屋から始発で新幹線に乗って、翔と琢磨は明日香の入院している病院へと駆けつけてきた。そこには病室の待合室の長椅子に座っていた朱莉が待っていた。「朱莉さん! 明日香は……明日香の様子は!?」翔は朱莉を見ると両肩を掴んで詰め寄ってきた。「あ、あの明日香さんは……」「おい! 落ち着け翔!」そこを止めたのは琢磨だった。「あ……」そこで翔は自分が思っていた以上に取り乱している事に気付き、溜息をついて力なく長椅子に座り込む。そこへ主治医の男性医師が現れた。「ご家族の方ですね?」翔の顔を見ると声をかけてきた。「はい。それで……彼女の具合は……?」「ええ、今から説明致します。どうぞ中へお入り下さい」医者に促され、翔は力なく立ち上がると病室へと入って行き、待合室には朱莉と琢磨がされた。「……」朱莉は青ざめた表情で立っている。そんな様子の見かねて琢磨は声をかけた。「朱莉さん……。少し座ってお話しませんか?」「はい……」項垂れたまま、朱莉は椅子に座ると琢磨も隣に座った。「朱莉さん。明日香さんは妊娠していたんですね。知っていたんですか?」琢磨は朱莉に質問した。「はい。知っていました。……でも私も聞かされたのは昨夜はじめてだったんです。明日香さんの自宅に招かれて、そこで3カ月だって初めて聞かされて……母子手帳を見せていただいたんです」「そうですか……」琢磨は神妙な面持ちで朱莉の話を聞いていた。朱莉が翔の事を好きなのはとっくに気付いていた。それなのに自分の好きな男性の子供を身籠ったと明日香に聞かされた時、朱莉はどれほどショックだっただろう?その時の気持ちを考えると、今目の前に青ざめた顔で項垂れている朱莉が憐れでならなかった。「私はリビングで眠っていて、明日香さんは隣の寝室で眠っていたんです。それで夜
「朱莉さん。君に話があるんだ。病院の外で話さないか?」「は、はい」朱莉は首を傾げながらも返事をした。しかし琢磨は翔の切羽詰まった様子が気になり、声をかけた。「当然、俺も話に混ぜて貰うからな?」「……好きにしろ」そして翔を先頭に、朱莉と琢磨は病室の中庭へと向かった。中庭に着き、ベンチに座ると翔は朱莉を睨み付けるような目で問い詰めてきた。「朱莉さん。昨日は明日香とずっと一緒にいたのに……何故君は明日香の異変に気付かなかったんだ?」「え……?」まるで責め立てるような言い方に朱莉の肩がビクリと跳ね、琢磨は驚いた。「翔! お前……何言ってるんだ!?」しかし琢磨の声が耳に入らないのか、朱莉を責めるのをやめない。「朱莉さん……君は明日香と同じ部屋にいたんだろう? しかも隣の部屋で寝ていれば苦しがる明日香の異変にすぐ気が付いたはずだ。……違うか?」「あ、あの……わ、私はあの時はまだ眠っていなかったんです。だから明日香さんの苦しんでいる声にすぐ気が付いて……それで……」「それを俺に信じろと言うのか? もしかして君は苦しがっている明日香を放置して、お腹の子供を流産させようと思っていたんじゃないのか? 明日香は君に子供を育てさせようとしていたからな」翔は眼に涙を浮かべながら朱莉を詰る。「! そ、そんな……!!」朱莉の口から悲痛な声が洩れる。「翔! 本気でそんな事を言ってるのか!? お前気でもおかしくなったんじゃないのか!? 大体朱莉さんにそんな真似出来るはずが無いだろう!?」琢磨は翔の胸倉を掴むと怒鳴りつけた。「うるさい! 俺と……明日香のことなんか何も……お前達2人には分からないくせに!」翔はまるで血を吐くように叫び、再び朱莉を睨みつける。「今回……明日香に命の危険は無かったが、もう二度と明日香を見捨てるような真似はしないでくれ。最低でも後5年は君と俺は契約婚という雇用関係を結んでいるんだから……。分かったか?」そしてフイと朱莉から視線を逸らせた。「悪いが今日はもう帰ってくれ。今はこれ以上君の顔を見ていたくないんだ」「!」朱莉はその言葉に身体を震わせ……俯いた。「わ……分かりました。ほ、本当に申し訳……ございません……でした……」最後の方は今にも消え入りそうな声だった。「翔! お前っていう奴は……!」「うるさい、琢磨。今日は
明日香は病室で今も眠っている。そんな明日香を翔は心配そうに見守っていた。そして先程、朱莉に投げつけた言葉を思い返していた。(少し言い過ぎてしまったか……? だが朱莉さんは明日香に色々嫌な目に遭わされてきていた。だから明日香の体調の悪さをわざと見過ごして……)その時、明日香が突然寝言を言い始めた。「いや……お母さん……置いて行かないで……。いい子になるから……私を……捨てないで……」明日香の目から涙が頬を伝って流れていく。「明日香……あの時の夢をみているのか……?」翔は明日香の手をギュッと握りしめると、不意に明日香が目を開けた。「翔…… ?ここはどこ……?」「明日香、良かった! 目が覚めたんだな!?」翔は半分泣いたような笑みを浮かべると明日香の顔を覗き込んだ。「あ……そうだったわ……。私は夜突然お腹が痛くなって……。それで……お腹の子供は……?」明日香はまだ夢の中なのか、ぼんやりした声で天井を見つめた。「ああ……。今回は……駄目だったよ……」「そう……。やっぱり……」明日香の言葉が翔は引っ掛かった。「やっぱり……? どういう事だ?」「医者に言われたのよ……。エコーで胎のうって言うのが確認できなかったから……もしかしたら子宮外妊娠かもしれないって……」「何だって? その話……今初めて聞いたぞ?」先程の医者の説明でも流産としか翔は聞かされていなかったのだ。「今の話……朱莉さんも知らなかったのか?」「ええ。だって……言いたくなかったのよ……」明日香は目を閉じた。確かにプライドの高い明日香のことだ。子供が出来たと話しても、産むことが出来ないかも知れないなど言えるはずも無いだろう。「明日香……辛かっただろう? すまなかった。具合が悪かったのに側にいてやれなくて……」翔は明日香の手を強く握りしめると明日香がふいに尋ねた。「朱莉さんは……何処?」「朱莉さんならもう帰ったぞ? 一体どうしたんだ? お前が朱莉さんの名前を口にするなんて」「そう……帰ったの。折角お礼を言おうと思っていたのに」明日香の呟きに翔は耳を疑った。「明日香……今、何て言ったんだ? 朱莉さんに……お礼だって……?」「ええ……。だって彼女は具合が悪くなってすぐに救急車を呼んでくれたのよ。それに救急車が来る間に私の母子手帳を探し出してくれたし……運ばれている最
真っ暗な部屋の中――朱莉は電気もつけずに部屋の隅に座り込んでいた。翔に冷たい言葉を投げつけられた後、朱莉は何処をどうやって自宅に帰って来たのか思い出せなかった。気付けば部屋の隅に座り込んでおり……部屋の中は闇に包まれていた。ぼんやりとした頭の中で朱莉は思った。今は何時なんだろう? 毎日欠かさず通っていた母の面会も今日は行く事が出来なかった。……きっと母は心配しているだろう……。朱莉の手には翔との連絡用スマホが握り締められていた。何処かで朱莉は期待していたのだ。ひょとしたら翔から連絡が入ってくるのでは無いだろうかと……。誤解してすまなかったと詫びの連絡が来るのでは無いかと心の何処かで密かに期待していたのだ。けれど何時間たっても朱莉のスマホには翔からの連絡は入って来なかった。代わりに朱莉の個人的に所有するスマホには何件も着信が入っていたが……朱莉はそのスマホを確認する気力も持てないでいた。突如、壁掛け時計が夜の9時を示す音を鳴らした。「あ……もう、こんな時間だったんだ」しかし、今の朱莉はなにもする気力が湧かなかった。そして今もこうしてかかってくるはずも無い翔からの電話を待ち望む自分がいる。朱莉の目に涙が浮かんできた。(馬鹿だ……私。あれ程翔先輩に冷たい言葉を投げつけられたのに……顔を見たくないって言われたのに……今もこうして翔先輩からの連絡を待っているなんて……)今迄我慢していた涙がとうとう堰を切って溢れ出してきた。朱莉は自分の膝に頭を埋め、声を殺して泣き続けた。本当はこんなことをしている場合では無いのに。3年間で高校を卒業する為に勉強だってしないといけないし、レポートも書かなければならない。それに明日香には英会話の勉強もするように以前言われたことがあったので、並行して朱莉は英会話の勉強も行っていた。やらなければならないことは沢山あるのに……今は何も手につかなかった。(マロン……こんな時、マロンが側にいてくれたら……)あの温かい身体を抱きしめて……自分の悲しい気持ちを、寂しい気持ちを慰めて貰うことが出来たのに……。(誰か、誰でもいいから私を助けて……。お母さん……いつになったら一緒に暮らせるの……?) その時――玄関のインターホンが何度も鳴り響く音が聞こえてきた。こんな時間に誰だろう……? 朱莉は立ち上がる気力すら無かった。それで
「朱莉さん……少しは落ち着きましたか?」玄関で琢磨は朱莉を見下ろし、尋ねた。「は、はい……申し訳ございませんでした。つい取り乱して……あ、あんな風に泣いて……。お恥ずかしい限りです……」俯く朱莉。いい大人があんな風に子供の様に泣きじゃくる姿を琢磨に見せてしまった事が恥ずかしくて堪らなかった。「そうやっていつも1人で泣いていたんですか? 辛い時や悲しい時、いつも……たった1人で……」琢磨の何処か苦し気な声に朱莉は顔を上げた。その顔は悲しみ満ちていた。「九条さん?」すると琢磨は突然頭を下げ、ポツリポツリと語りだした。「朱莉さん。私は副社長の部下であり、そして親友でもあります。親友は……禁断の恋と、会長に見合いを強いられ、苦しんでいました。そしてついに世間を……会長の目を胡麻化す為に『契約婚』という手段を選んだんです。そして私も親友と会社の為に面接と言う手段を取り、募集し……選ばれてしまったのが朱莉さん。貴女だったんです。書類選考をしたのは、他でも無い……この私です」「……」朱莉は黙って話を聞いていた。「私も朱莉さんをこんな辛い立場に追いやった人間の1人です。いや……最初に朱莉さんを副社長に紹介したのが私だから一番質が悪い男です。だからこそ、私は貴女に罪滅ぼしがしたい」「罪滅ぼし……?」「はい、もし朱莉さんがペットを飼いたいと言うなら私が貴女の代わりに飼って育てます。そして休みの日は貴女にペットを託します。もし、風邪を引いたり、体調を崩したりした場合は時間の許す限り、貴女の元へ駆けつけます。貴女が翔と契約婚を続けるまでは……出来るだけ朱莉さんの力になります。いや……そうさせて下さい」琢磨は頭を下げた。その身体は震えている。「な、何を言ってるんですか九条さん! そんなこと九条さんにさせられるわけないじゃありませんか!九条さんは翔さんの重責な秘書ですよ? 私のことなら大丈夫です。高校を卒業してからはずっと1人で生きて来たんです。思った以上に強いんですよ? でも今回のことはちょっと……堪えてしまいましたど……」「それは副社長の事が好きだから……ですよね?」琢磨の顔は先ほどよりも悲し気に見えた。「!ど、どうして……?」そこから先は朱莉は言葉にならなかった。「朱莉さんを見ていればそれ位分かりますよ。でも……朱莉さん。悪いことは言いません。翔
億ションを足早に出ると、琢磨は翔に電話をかけた。『もしもし……』5回目のコールで翔が電話に応じた。「おい、翔。お前まだ病院にいるんだよな?」『あ、ああ。医者の話では今日は全身麻酔で子宮の中を綺麗にする処置をしたそうだから、付き添いをするように言われているんだ。お前は今何処にいるんだ? ひょっとして外にいるのか?』「ああ。そうだ。気の毒な朱莉さんの所へ行っていた所だ。翔、人のことを言えないが……お前は最低な男だよ。明日香ちゃんに対する優しさをほんの少しでも朱莉さんに分けてやろうとは思えないのか? いいか? 朱莉さんを傷付けたのはお前だけど……彼女を慰められるのも……お前しかいないんだよ!」歩きながら琢磨は吐き捨てるように言った。『琢磨。お前……』「いいか? 朱莉さんは今回の事で契約婚を打ち切られるのじゃ無いかって心配していたぞ? 彼女はまだお前との契約婚を望んでいる。もしお前が朱莉さんとの契約婚を打ち切ろうと考えているなら俺が許さない。絶対に阻止するからな!?」すると電話越しから狼狽えた声が聞こえた。『ま、まさかそんな事考えるはず無いだろう? 俺は今……すごく後悔してる。つい、頭に血が上ってあんな酷いことを朱莉さんに言ってしまうなんて……。もう何回も俺は朱莉さんを傷付けてしまった。我ながら最低な男だと思っている。だけど……明日香が絡んでくると俺は……!』「それはお前が明日香ちゃんに負い目があるからだろう? お前……本当に明日香ちゃんのことが好きなのか? 本当は罪滅ぼしの為に愛そうとしているだけなんじゃないのか?」『! ま、まさか……俺は本当に明日香の事を……』しかし、そこまでで翔は言い淀んでしまった。「まあ、別に2人のことは俺には関係ないけどな。ただ朱莉さんのことなら今後俺は口を出させて貰うぞ。俺にはお前と言う男を紹介してしまった罪があるからな」『琢磨……』受話器越しの翔からため息交じりの声が聞こえた。「何だよ? 何か言い分があるなら聞くぞ?」『いや、特に無いよ。とにかく朱莉さんにはお前から伝えておいてくれないか? 契約婚は続けさせて欲しっいって』「なら、お前からメッセージを送れ」琢磨はぶっきらぼうに言った。『だが、俺から連絡をすると……怖がられるだろう?』「お前……! ふざけるなよ! 彼女……朱莉さんはずっとお前との連
明日香が流産をしてから、早いもので半月が過ぎ、季節は3月になっていた。あの夜、琢磨に説得された翔は、朱莉に詫びのメッセージを送った。自分勝手な思い込みで心無い言葉を朱莉にぶつけてしまった非礼を詫び、明日香が朱莉に感謝していた旨を綴った。そしてこれからも契約婚の関係を続けて貰いたいと書いて朱莉にメッセージを送ったのだった。勿論朱莉からの返信は快諾の意を表す内容であったのは言うまでも無い。翔は前回の非礼の意味も兼ねて、今月からは今迄月々手当として朱莉に振込していた金額を増額させ、朱莉は毎月150万円もの金額を貰うことになったのだった——****—―日曜日 朱莉は琢磨と一緒に買い物に来ていた。「何だか申し訳ないです。翔さんにこんなに沢山お金を振り込んでいただくなんて……」琢磨と並んで歩きながら朱莉は口にするも、琢磨はにこやかに答えた。「いえ、気にしないで下さい。そのお金は明日香さんを助けてくれた副社長のお礼の意が込められているのですから」「明日香さんの……」あの日、明日香が救急車で運ばれた夜のこと。明日香の母子手帳を朱莉が必死に探し出し、救急車の中で激しい腹痛で苦しんでいる明日香の手をギュっと握りしめて励ましの言葉をかけ続けた朱莉。明日香の中で感謝の気持ちが芽生えてきたのか、朱莉に対しての態度が軟化してきたのだ。そして犬よりも小さめで静かな小動物ならあの部屋で別に飼育しても良いと明日香の許可を貰えたのである。そこで朱莉はウサギを飼うことに決めたのだが……。「あの……九条さん。折角のお休みのところ、わざわざペットショップについて来てもらわなくても、私なら一人で大丈夫ですよ?」隣りを歩く琢磨を見上げた。「いえ、いいんですよ。ペットを飼うには色々荷物も必要になりますからね。荷物持ち位させて下さい」しかし朱莉は申し訳ない気持ちで一杯だった。琢磨は翔の第一秘書と言うだけあり、日々多忙な生活を続けている。それなのに貴重な休みを自分の買い物につき合わせることに肩身が狭く感じてしまうのであった。今回、何故琢磨が朱莉の買い物に付き合う流れになったかと言うと、翔から琢磨にペット飼育に関する明日香のメッセージを朱莉に伝えて欲しいと頼まれたのだ。琢磨は朱莉に翔からの伝言を伝えたると朱莉が遠慮がちにそれならウサギを飼ってみたいと申し出てきた。そこで今
17時――「ふう~疲れた……」朱莉は億ションへ帰って来ると、部屋の窓を開けて換気をするとソファの上に座った。「今日は疲れちゃったからご飯作るのはやめよう。東京へ戻って来た記念に思いきってどこかに食事に行ってみようかな……?」朱莉の本心を言えば、航に連絡を入れて2人で何処かで待ち合わせをしたかった。一緒にお店に入り、そこでお土産のTシャツを手渡して、食事が出来ればと願っていた。だが……突然航は東京へ戻り、そこからは一切連絡が来なくなってしまったのだ。航の性格からみて、それはとても考えられないことだった。(航君は、ひょっとすると京極さんに私との連絡を絶つように言われていたのかもしれない……)何故京極がそこまでのことをするのか、朱莉には見当がつかなかった。航に会えないことを思うと悲しい気持ちが込み上げてくる。それだけ朱莉にとって、航は大きな存在だったのだ。だが朱莉は航にも京極にも理由を尋ねる勇気が無かった。暫くソファに寄りかかり、ぼ~っと天井を見上げていると突然朱莉の個人用スマホの電話が鳴り始めた。(まさか、京極さん!?)慌ててスマホを取り出すと、それは母からの電話だった。「はい、もしもし」『ああ、朱莉。今日は私から電話を入れてみようかと思ったのだけど……今忙しいの?』受話器からは意外と元気そうな母の声が聞こえてきた。「ううん、そんな事無いよ。あ、そうだお母さん。実は今まで黙っていたけど私今日東京に戻って来たんだよ?」『え!? そうだったの!? びっくりだわ……。どうして今まで今日東京へ戻ることを教えてくれなかったの?』母はやはり朱莉が考えていたのと同じ事を尋ねてきた。「うん、ごめんなさい。はっきりいつ頃東京へ戻るか日程が決まっていなかったから言えなかったの。それでね、明日お見舞いに行こうと思ってるの。沖縄で綺麗な琉球ガラスの花瓶を買ってきたから、明日持ってお見舞いに行くね?」『ありがとう、朱莉。フフフ……久しぶりに貴女に会えると思うと嬉しいわ』「うん。お母さん。私も楽しみにしてるね。それじゃまた明日」朱莉は電話を切ると、部屋が肌寒くなっていたことに気づいて部屋の窓を閉めた。いつの間にか部屋の中はすっかり薄暗くなっていたので、遮光カーテンを閉めると部屋の電気をつけた。 信じられないくらいの広すぎる部屋。今まではこの部屋で
11月1日午前8時―― 今日は朱莉が東京へ戻る日である。当初の予定では明日香達が日本へ戻って来る日に合わせて東京へ戻るはずだった。しかし、新生児を迎えるにあたり、沖縄から発送したベビー用品を受け取って部屋を用意しておきたいと朱莉が姫宮にお願いをすると、すぐに姫宮は朱莉の提案を聞き入れてくれた。(きっと翔先輩にお願いしても断られていたかも。姫宮さんにお願いしておいて良かった)ただし、翔からは億ションに戻った後は子供を迎えるまでは極力目立たない行動を取るように念を押されている。 朱莉が梱包して発送したベビー用品はもう全て六本木に発送済みだ。今は必要としない朱莉の荷物も全てまとめて発送した。このマンションには家具・家電も含めて食器類も全て備え付けだったので、朱莉自身の発送した荷物は微々たるものであった。所有する車は既に数日前にフェリーで東京の方へ輸送手続きを済ませてある。明日には運転代行業の業者が億ションまで運んでくることになっていた。 朱莉が乗る飛行機の便は11時。那覇空港へ行くにあたり、モノレールを利用する予定であった。「早めに那覇空港へ行ってお土産屋さんでも見ていようかな……」朱莉は呟くと、部屋の掃除を始めた。今までお世話になって来た部屋なので念入りに掃除を始めた。夢中になって掃除をし、気が付いた時には9時半になっていた。「大変。もうこんな時間だ。早く出かける準備をしなくちゃ」着がえをし、簡単にメイクをすると最後に忘れ物が無いか部屋の中をざっと確認し、足元にいたネイビーを抱きあげた。「ネイビー、いよいよ東京へ帰るよ」そして暖かなネイビーの身体に顔を寄せた。 キャリーバックにネイビーを入れ、ショルダーバッグにキャリーケースを持って朱莉はマンションを出た。そして自分が今まで住んでいた部屋に向かってお辞儀をした。(今までお世話になりました)心の中で感謝の意を述べると、朱莉は那覇空港へ向かった——**** 朱莉は那覇空港へ向かるモノレールの中で物思いにふけっていた。実は一つ気がかりなことがあったのだ。それは京極に黙って沖縄を去ること。本来であれば京極は朱莉を追って沖縄へやって来たようなものなので、本日東京へ戻ることを告げるべきなのかもしれない。しかし、何故突然戻ることになったのか尋ねられた場合、朱莉は答えることが出来ない
1人の男が朱莉の住むマンションの前に立っていた。その男はぎらつく目で朱莉の住む部屋のベランダをじっと見上げている。その時――「……こんな所で一体何をしているんだ?」京極が男に声をかけた。「い、いや……お、俺は……」男は狼狽したように後ず去ると、背後から体格の良い背広姿の男が突然現れて男を羽交い絞めにした。捕らえられた男を京極は冷たい瞳で睨み付けた。「まだコソコソと嗅ぎまわる奴らが残っていたのか……」それは背筋がゾッとするような声だった。「は……離せ! うっ!」暴れる男を押さえつけている男性は男の腕を捻り上げた。京極は身動きが出来ない男に近付くと、肩から下げた鞄を取り上げて漁り始めた。中からデジカメを発見すると蓋を開けてメモリーカードを引き抜いた。「よ、よせ! 触るな! うっ!」さらに腕をねじ上げられて再び男は苦し気に呻いた。そんな男を京極は冷たい目で見つめると、次に名刺を探し出した。「やはりゴシップ誌に売りつけるフリーの三流記者か……。どこの誰に教えられたのかは知らないが余計な手出しはするな。もし下手な真似をするなら二度とこの業界で生きていけない様にしてやるぞ?」それは背筋がゾッとする程冷たく、恐ろしい声だった。「だ、誰なんだよ……お前は……」「仮にもお前のような奴がこの業界で働いていれば名前くらいは聞いたことがあるだろう? 俺の名前は京極だ」「京極……ま、まさかあの京極正人か……!?」途端に男の顔は青ざめる。「そうか……やはり俺のことは知ってるんだな? 分かったら、二度と姿を見せるな。さもないと……」「ヒイッ! わ、分かった! もう二度とこんな真似はしない! た、頼む! 見逃してくれ!」「……どうしますか?」男の腕を締め上げていた男性は京極に尋ねた。「……離してやれ」男性が手を離すと、男はその場を逃げるように走り去って行った。その姿を見届けると男性は京極に尋ねた。「いつまでこんなことを続けるつもりですか?」「勿論彼女の契約婚が終了するまでだ」「しかし、それでは……」「今はまだ動けない。だが、最悪の場合は強引にこの契約婚を終わらせるように仕向けるつもりだ」その時、京極のスマホが鳴った。京極はその着信相手を見ると、一瞬目を見開き……電話に出た。「ああ……。教えてくれてありがとう。助かったよ……うん。早速
10月22日—— その日は突然訪れた。朱莉が洗濯物を干し終わって、部屋の中へ入ってきた時の事。翔との連絡用のスマホが部屋の中で鳴り響いていた。(まさか明日香さんが!?)すると着信相手は姫宮からであった。すぐにスマホをタップすると電話に出た。「はい、もしもし」『朱莉さん、明日香さんが男の子を先程出産されました』「え? う、生まれたんですね!?」『はい、かなりの難産にはなりましたが、無事に出産することが出来ました。私は今副社長とアメリカにいます。副社長は日本に戻るのは10日後になりますが、私は一時的に日本へ帰国する予定です。朱莉さんはもう引っ越しの準備を始めておいて下さい。朱莉さんが今現在お住いの賃貸マンションの解約手続きは私が帰国後行いますので、そのままにしておいていただいて大丈夫です。それではまた連絡いたします』姫宮からの電話はそこで切れた。(明日香さんがついに赤ちゃんを出産……そしてこれから私の子育てが始まるんだ……。それにしても難産って……明日香さん大丈夫なのかな……?)朱莉は明日香のことが心配になった。ただでさえ、情緒不安定で一時は薬を服用していたと聞く。回復の兆しがあり、薬をやめてから明日香は翔との子供を妊娠したが、その後は翔と姫宮の不倫疑惑が浮上。結局その件は航の調査で2人の間に不倫関係は認めらず、誤解だったことが分かったが明日香は難産で苦しんだ……。「明日香さん、元気な姿で日本に赤ちゃんと一緒に戻ってきて下さい」朱莉はそっと祈った。——その後朱莉は梱包用品を買い集めて来るとマンションへと戻り、買い集めていたベビー用品の梱包を始めた。一つ一つ手に取って荷造りを始めていると、自然と琢磨や航のことが思い出されてきた。「あ……このベビードレスは確か九条さんと一緒に買いに行ったんだっけ。そしてこれは航君と一緒に買った哺乳瓶だ……」朱莉の胸に懐かしさが込み上げてくる。(あの時は誰かが側にいてくれたから寂しく無かったけど……)だが、いつだって朱莉が一番傍にいて欲しいと願っていた翔の姿はそこには無い。翔と2人で過ごした日々は片手で数えるほどしか無かった。むしろ、冷たい視線や言葉を投げつけらる数の方が多かったのだ。(でも……翔先輩。私が明日香さんの赤ちゃんを育てるようになれば少しは私のこと、少しは意識してくれるかな……?)一度
観覧車を降りた後は、京極の誘いでカフェに入った。「朱莉さん。食事は済ませたのですか?」「はい。簡単にですが、サラダパスタを作って食べました」「そうですか、実は僕はまだ食事を済ませていないんです。すみませんがここで食事をとらせていただいても大丈夫ですか?」「そんな、私のこと等気にせず、お好きな物を召し上がって下さい」(まさか京極さんが食事を済ませていなかったなんて……)「ありがとうございます」京極はニコリと笑うと、クラブハウスサンドセットを注文し、朱莉はアイスキャラメルマキアートを注文した。注文を終えると京極が尋ねてきた。「朱莉さんは料理が好きなんですか?」「そうですね。嫌いではありません。好き? と聞かれても微妙なところなのですが」「微妙? 何故ですか?」「1人暮らしが長かったせいか料理を作って食べても、なんだか空しい感じがして。でも誰かの為に作る料理は好きですよ?」「そうですか……それなら航君と暮していた間は……」京極はそこまで言うと言葉を切った。「京極さん? どうしましたか?」「いえ。何でもありません」 その後、2人の前に注文したメニューが届き、京極はクラブハウスサンドセットを食べ、朱莉はアイスキャラメルマキアートを飲みながら、マロンやネイビーの会話を重ねた——**** 帰りの車の中、京極が朱莉に礼を述べてきた。「朱莉さん、今夜は突然の誘いだったのにお付き合いいただいて本当にありがとうございました」「いえ。そんなお礼を言われる程ではありませんから」「ですがこの先多分朱莉さんが自由に行動できる時間は……当分先になるでしょうからね」何処か意味深な言い方をされて、朱莉は京極を見た。「え……? 今のは一体どういう意味ですか?」「別に、言葉通りの意味ですよ。今でも貴女は自分の時間を犠牲にしているのに、これからはより一層自分の時間を犠牲にしなければならなくなるのだから」京極はハンドルを握りながら、真っすぐ前を向いている。(え……? 京極さんは一体何を言おうとしているの?)朱莉は京極の言葉の続きを聞くのが怖かった。出来ればもうこれ以上この話はしないで貰いたいと思った。「京極さん、私は……」たまらず言いかけた時、京極が口を開いた。「まあ。それを言えば……僕も人のことは言えませんけどね」「え?」「来月には東京へ戻
朱莉が航のことを思い出していると、運転していた京極が話しかけてきた。「朱莉さん、何か考えごとですか?」「いえ。そんなことはありません」朱莉は慌てて返事をする。「ひょっとすると……安西君のことですか?」「え? 何故そのことを……?」いきなり確信を突かれて朱莉は驚いた。するとその様子を見た京極が静かに笑い出す。「ハハハ……。やっぱり朱莉さんは素直で分かりやすい女性ですね。すぐに思っていることが顔に出てしまう」「そ、そんなに私って分かりやすいですか?」「ええ。そうですね、とても分かりやすいです。それで朱莉さんにとって彼はどんな存在だったのですか? よろしければ教えてください」京極の横顔は真剣だった。「航君は私にとって……家族みたいな人でした……」朱莉は考えながら言葉を紡ぐ。「家族……? 家族と言っても色々ありますけど? 例えば親子だったり、姉弟だったり……もしくは夫婦だったり……」最期の言葉は何処か思わせぶりな話し方に朱莉は感じられたが、自分の気持ちを素直に答えた。「航君は、私にとって大切な弟のような存在でした」するとそれを聞いた京極は苦笑した。「弟ですか……それを知ったら彼はどんな気持ちになるでしょうね?」「航君にはもうその話はしていますけど?」朱莉の言葉に京極は驚いた様子を見せた。「そうなのですか? でも安西君は本当にいい青年だと思いますよ。多少口が悪いのが玉に傷ですが、正義感の溢れる素晴らしい若者だと思います。社員に雇うなら彼のような青年がいいですね」朱莉はその話をじっと聞いていた。(そうか……京極さんは航君のことを高く評価していたんだ……)その後、2人は車内で美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジに着くまでの間、航の話ばかりすることになった——****「どうですか? 朱莉さん。夜のアメリカンビレッジは?」ライトアップされた街を2人で並んで歩きながら京極が尋ねてきた。「はい、夜は又雰囲気が変わってすごく素敵な場所ですね」「ええ。本当にオフィスから見えるここの夜景は最高ですよ。社員達も皆喜んでいます。お陰で残業する社員が増えてしまいましたよ」「ええ? そうなんですか?」「そうですよ。あ、朱莉さん。観覧車乗り場に着きましたよ?」2人は夜の観覧車に乗り込んだ。観覧車から見下ろす景色は最高だった。ムードたっ
その日の夜のことだった。朱莉の個人用スマホに突然電話がかかって来た。相手は京極からであった。(え? 京極さん……? いつもならメールをしてくるのに、電話なんて珍しいな……)正直に言えば、未だに京極の事は姫宮の件や航の件で朱莉はわだかまりを持っている。出来れば電話では無く、メールでやり取りをしたいところだが、かかってきた以上は出ないわけにはいかない。「はい、もしもし」『こんばんは、朱莉さん。今何をしていたのですか?』「え? い、今ですか? ネットの動画を観ていましたが?」朱莉が観ていた動画がは新生児のお世話の仕方について分かり易く説明している動画であった。『そうですか、ではさほど忙しくないってことですよね?』「え、ええ……まあそういうことになるかもしれませんが……?」一体何を言い出すのかと、ドキドキしながら返事をする。『朱莉さん。これから一緒にドライブにでも行きませんか?』「え? ド、ドライブですか?」京極の突然の申し出に朱莉はうろたえてしまった。今まで一度も夜のドライブの誘いを受けたことが無かったからだ。(京極さん……何故突然……?)しかし、他ならぬ京極の頼みだ。断るわけにはいかない。「わ、分かりました。ではどうすればよろしいですか?」『今から30分くらいでそちらに行けると思いますので、マンションのエントランスの前で待っていて頂けますか?』「はい。分かりました」『それではまた後程』用件だけ告げると京極は電話を切った。朱莉は溜息をつくと思った。(本当は何か大切な話が合って、私をドライブに誘ったのかな……?)****30分後――朱莉がエントランスの前に行くと、そこにはもう京極の姿があった。「すみません、お待たせしてしまって」「いえ、僕もつい先ほど着いたばかりなんです。だから気にしないで下さい。さ、では朱莉さん。乗って下さい」京極は助手席のドアを開けるた。「は、はい。失礼します」朱莉が乗り込むと京極はすぐにドアを閉め、自分も運転席に座る。「朱莉さん、夜に出かけたことはありますか?」「いいえ、滅多にありません」「では美浜タウンリゾート・アメリカンビレッジに行きましょう。夜はそれはとても美しい景色に変わりますよ? 一緒に観覧車に乗りましょう」「観覧車……」その時、朱莉は航のことを思い出した。航は観覧車に乗
数か月の時が流れ、季節は10月になっていた。カレンダーの3週目には赤いラインが引かれている。そのカレンダーを見ながら朱莉は呟いた。「予定通りなら来週明日香さんの赤ちゃんが生まれてくるのね…」まだまだこの季節、沖縄の日中は暑さが残るが、夏の空とは比べ、少し空が高くなっていた。琢磨とも航とも音信不通状態が続いてはいたが、今は寂しさを感じる余裕が無くなってきていた。翔からは頻繁に連絡が届くようになり、出産後のスケジュールの取り決めが色々行われた。一応予定では出産後10日間はアメリカで過ごし、その後日本に戻って来る事になる。朱莉はその際、成田空港まで迎えに行き、六本木のマンションへと明日香の子供と一緒に戻る予定だ。「お母さん……」 朱莉は結局母には何も伝えられないまま、ズルズルここまできてしまったことに心を痛めていた。どうすれば良いのか分からず、誰にも相談せずにここまで来てしまったことを激しく後悔している。そして朱莉が出した結論は……『母に黙っていること』だった。あれから少し取り決めが変更になり、朱莉と翔の婚姻期間は子供が3歳になった月に離婚が決定している。(明日香さんの子供が3歳になったら今までお世話してきた子供とお別れ。そして翔先輩とも無関係に……)3年後を思うだけで、朱莉は切ない気持ちになってくるが、これは始めから決めらていたこと。今更覆す事は出来ないのだ。現在朱莉は通信教育の勉強と、新生児の育て方についてネットや本で勉強している真っ最中だった。生真面目な朱莉はネット通販で沐浴の練習もできる赤ちゃん人形を購入し、沐浴の練習や抱き方の練習をしていたのだ。(本当は助産師さん達にお世話の仕方を習いに行きたいところなんだけど……)だが、自分で産んだ子供ではないので、助産師さんに頼む事は不可能。(せめて私にもっと友人がいたらな……誰かしら結婚して赤ちゃんを産んでる人がいて、教えて貰う事ができたかもしれないのに……)しかし、そんなことを言っても始まらない。そして今日も朱莉は本やネット動画などを駆使し、申請時のお世話の仕方を勉強するのであった――**** 東京——六本木のオフィスにて「翔さん、病院から連絡が入っております。まだ出産の兆候は見られないとのことですので、予定通り来週アメリカに行けば恐らく大丈夫でしょう」姫宮が書類を翔に手
「ただいま……」玄関を開け、朱莉は誰もいないマンションに帰って来た。日は大分傾き、部屋の中が茜色に代わっている。朱莉はだれも使う人がいなくなった、航が使用していた部屋の扉を開けた。綺麗に片付けられた部屋は、恐らく航が帰り際に掃除をしていったのだろう。航がいなくなり、朱莉の胸の中にはポカリと大きな穴が空いてしまったように感じられた。しんと静まり返る部屋の中では時折、ネイビーがゲージの中で遊んでいる気配が聞こえてくる。目を閉じると「朱莉」と航の声が聞こえてくるような気がする。朱莉の側にいた琢磨は突然音信不通になってしまい、航も沖縄を去って行ってしまった。朱莉が好きな翔はあの冷たいメール以来、連絡が途絶えてしまっている。肝心の京極は……朱莉の側にいるけれども心が読めず、一番近くにいるはずなのに何故か一番遠くの存在に感じてしまう。「航君……。もう少し……側にいて欲しかったな……」朱莉はすすり泣きながら、いつまでも部屋に居続けた——**** 季節はいつの間にか7月へと変わっていた。夏休みに入る前でありながら、沖縄には多くの観光客が訪れ、人々でどこも溢れかえっていた。京極の方も沖縄のオフィスが開設されたので、今は日々忙しく飛び回っている様だった。定期的にメッセージは送られてきたりはするが、あの日以来朱莉は京極とは会ってはいなかった。航が去って行った当初の朱莉はまるで半分抜け殻のような状態になってはいたが、徐々に航のいない生活が慣れて、ようやく今迄通りの日常に戻りつつあった。 そして今、朱莉は国際通りの雑貨店へ買い物に来ていた。「どんな絵葉書がいいかな~」今日は母に手紙を書く為に、ポスカードを買いに来ていたのだ。「あ、これなんかいいかも」朱莉が手に取った絵葉書は沖縄の離島を写したポストカードだった。美しいエメラルドグリーンの海のポストカードはどれも素晴らしく、特に気に入った島は『久米島』にある無人島『はての浜』であった。白い砂浜が細長く続いている航空写真はまるでこの世の物とは思えないほど素晴らしく思えた。「素敵な場所……」朱莉はそこに行ってみたくなった。 その夜――朱莉はネイビーを膝に抱き、ネットで『久米島』について調べていた。「へえ~飛行機で沖縄本島から30分位で行けちゃうんだ……。意外と近い島だったんだ……。行ってみたいけど、でも